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産業カウンセラーとしての見聞録

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こちらは学習ノートのページです。
 
 
 
◆家庭のコミュニケーションの今と昔から_2008.07.30

 
慌しくも朝の支度をしている時に、なにげなく流れていたテレビのニュース番組がとても印象的で考えさせられた。
 
それは秋葉原の通り魔事件をはじめ、最近の多発する無差別殺人の犯人の動機のひとつに、「親を困らせてやりたかった」という犯人の共通する犯行理由に対するコメンテーターと専門家のコメント。
 
 
コメンテーターは単に、最近の家族、親子のコミュニケーション不足が、こうした事件を生む要因だと言っていた。確かに、それはよく言われることであって違和感なく耳にしているが、本当にそうだろうか?
 
というのも、そもそもその昔の家庭環境の中って、今よりも家族のコミュニケーションが良かったなんて言えない気がする。
 
我が家の親子関係も、時にはまるで友人関係のようなコミュニケーションを、直接だけでなく、携帯電話でもメールでもいつでもしているようで、昔のそれとはずいぶん交流をしているように思ってならない。
 
 
コミュニケーション不足でなければ、さて、何が問題か?
 
 
するとその専門家は、家族だけでの問題ではなく社会の中で孤立してしまうことが問題ではないかと問題提起をされていた。
 
 
昔、我が家の子供たちとこの夏のように暑い日にはプールで遊んでは、そんな時はよく「ねぇ、パパ、ママ、見て、見て、こうでしょ」と何度も叫んでは、見ている私たち夫婦の視線を確認しては夢中になって遊んでいたことを思い出す。
 
 
子供にとって、親に自分の存在を無視される、忘れられるということほど辛いことはない。大人も、きっとおんなじ。
 
 
犯人が親を困らせたかったというのは、もしやこっちを向いて欲しかったということの裏返しであって、それは、社会で孤立した自分を、せめて親には見て欲しいということなのかもしれない。
  
 
人間は、一人では生きていけない。
 
 
職場も社会も、家庭でも、孤立しない、させないように、そう思った。
 
 
 
 
 
◆中学生と事件_2008.07.21

 
先日、14歳中学2年生が起した、愛知県の東名高速道路高速バス乗っ取り事件には、「14歳が」と、とてもショッキングな事件であった。自分がその当時だった頃を思い出すと、どうしてそんなことをしでかすのかと理解できなかった。
 
ましてや、犯人のその子はとても優秀でまじめであった聞き、余計にも理解に苦しみました。
 
 
すると、今度は埼玉で、中3の長女が突然眠っている父親を刺殺した事件もあり、しかも、父親とこの子は日頃からとても仲良く、事件当日も一緒に買い物をしその日はカレーを作って夕食も共にしていたという。
 
私ごときが言うべき立場ではないが、2人の子供を持つ親として、「どうして?」と、つくづく考えさせられてしまいます。
 
 
原因については、これから専門家が詳しく調査し、それなりに究明をされるのでしょうが、とても他人事ではなく、その結果が大変気になるところです。
 
 
子供達は、親の自分に対する希望や願いの大きさを知るにつけ、現実の狭間にもがきながら、親の前で弱音をはけぬと苦しんでいるのでしょうか。
 
私などは、目の前の成績や普段の態度(食事中までメールしたり、いつまでも友達と遊んでいたり)ばかりに目が止まり、本当の気持ちや子供達を想う大切なことなどどこ吹く風。考えてみれば一方的で、子供の悩みを受け入れる、あるいは受けとめるなんて影も微塵もないから困ったものです。
 
そうかといって、どうする術も知らず子供を信じるだけでこと足りるとも思えず、いざとなったらどうしたものかと考えてしまいます。
 
 
もっと小さかった頃、子供と一緒に無邪気に遊んだあの頃をいつの日か忘れてしまっているような、今回の事件で考えさせられるのでした。
 
 
 
 
もしかして神疾患・精神障害?_2008.07.14

 
心配性の母親は、今週、嫁いだ長女と久しぶりに旅行に行くのを楽しみにしているはずであった。それが、いつもの心配性の癖が出始めて、「当日の天気は?」からはじまり、「羽田空港へ行く途中、電車が止まったりしたらどうしようか?」「飛行機の乗り方がわからないからどうしよう」などと、つまらない心配ばかりしていい加減にして欲しい。
 
最初はいつものことと思っていた。大体、自分の娘と一緒に行くのだから、基本的になにも心配は要らない。それなのに、ああでもないこうでもないと、それは旅行日が近づくにつれてエスカレートしているようだった。
 
今までの私であったなら、そんな心配性すぎる母親の性格にあきれて終わるのが関の山だった。でも、産業カウンセリングで学んだ中で、そういえばメンタル相談に関する中で精神疾患や精神障害の基礎知識の中に、母親のように心配性すぎる症状の紹介があったことを思い出し、当時のテキストを見直してみた。

というのも、当時は、精神疾患とか精神障害というのは特別な人の精神病の話しで、健康で普通に仕事や生活をしている一般の人とは縁のない話しだと思っていた。それでも、うつ病くらいは、そうした障害の代表的な症状だというくらいはなんとなく理解はしていた。

振り返ってテキストを読んでみると、そうした「うつ病」に加えて「躁うつ病」とか、「総合失調症(精神分裂病)」や、神経症とノイローゼ、そして「心身症」などの具体的な症状と特徴などを知ることができた。その中で、アルコール依存症なども含まれていることを知ると、突如、とても他人事ではすまされない、ビールばかり飲んでいるこの私は、もしや精神的な疾患があるんじゃぁないのかと真剣に考えさせられたから、この辺のところのインパクトは結構あったかのように思う。

母親の様子でピンときたのは、不潔恐怖(手を延々と洗い続ける)とか縁起恐怖(数字や儀式にこだわる)と言ったたぐいのもので、強迫観念(つまらない考え、不合理と理解しながらも、意志に反してひとつの観念が頭にこびりついて離れない)に悩まされ、多くの場合その考えを振り払おうと強迫症状(確認行為)が出現するとあった。

なるほど、まさしく母親はこの強迫神経症に近いことが素人の私でも、なんとなく感じる。ノイローゼという表現は、こうした神経症全般を指すことが多く、精神医学的には神経症と言うらしい。

代表的な神経症には、最近耳にするパニック障害などの不安神経症、高所恐怖症など不安の対象が限定しているという恐怖症、病気や健康に対する過度のとらわれから病院めぐりやドクター・ショッピングを繰り返すという心気症(心気神経症)などがあることも学んだ。(すっかり忘れてしまったが・・・)

心身症というのもあって、こちらは精神的ストレスを基盤として発症する身体症状を言うらしく、胃潰瘍や円形脱毛症、気管支喘息などがあることも知り、いずれにしてもこうした症状を知ると、精神疾患や精神障害は、日常的に誰にでもありうるけして特別な病気ではないことを改めて考えさせられたものだった。

母親には、ついつい「精神科でも行ってみたら」なんて軽々しく言い放ってしまい反省している。特別な病気ではなく必ず治るものであり、勝手な解釈で余計にも身も心も痛めないようにアドバイスをしてあげたいものだと思った。
 
 
◆職場で心を痛む人の増加が留まらない_2008.07.11

 
「職場で心を痛む人の増加が留まらない」と心配と嘆きのこのタイトルは、藤井純子 Office カウンセリングルーム(http://www.fujii-junko.com)の「カウンセリングの現場から」の、今日届いたメルマガのタイトル。
 
毎年5月と6月に、昨年の労災や自殺者に関するデータが発表されるようで、藤井さんは、その報告された内容に、自身のカウンセラーとしての役割や責任から心を傷めていらっしゃる。
 
産業カウンセリングの資格を取得したからといって、自分のことしか考えていないこの私とは、まったくもって藤井さんの志の高さに尊敬をします。
 
 
報告されたそのデータには、自殺の問題から、不眠症、摂食障害などの日常生活上での問題や、対人関係とかメンタルヘルスに対する事業所の取り組みの低さなど、さまざまな事例が細かくありました。
 
 
藤井さんは、部下10名体制で緊急時対応で現場にあたり、相当な覚悟でこうした問題に取り組んでいらっしゃるようで、「厳しい現状を真摯に受け止め、めげることなく更なる決意を持って新たな動きを開始しなければならない」ともあり、現状の深刻さをより感じるところです。
 
 
さて、私はというと、こうした深刻な問題に対応できる術がないだけではなく、事例を知るのがやっとですが、せめて職場の様子をよく観察してなんて、自分のことはさておいてそれなりに考えさせられました。
 
 
 
 
 
◆賛成でも反対でもない_2008.07.07

 
愛用している“フランクリン・コヴィー氏”の「フランクリン・プランナー」は、もはや私の大事な宝物です。
 
その使い勝手の良さと、「大切なことを大切にするために」という理念も気に入り、使い始めてかれこれ4年目になります。

私が、産業カウンセリングを学び始めたころ、たとえば傾聴という技法がなぜ必要なのかといった点において、これはあくまでなんとなくでありましたが、このフランクリン・コヴィー氏が提唱していた「大切なことを大切にするために」という理念と深く関係があるように思えてならなかったことを覚えています。

それは、「大切なことを大切にするために傾聴がある」という感じです。


最近、このフランクリン・コヴィー・ジャパンのエデュケーションチームのメルマガを読みはじめています。

子供の将来を応援したいお父さんやお母さんをサポートするための情報発信といった内容なのですが、特にそれについて興味があって読み始めたわけでもなく、正直なんとなくという感じであります。

そんな中、6日の日曜日に届いたメルマガには、子供の相談に対して、「それじゃぁだめだ」とか、「それは間違った考えだ」とか、たんに「それでいいんじゃぁないか」なんていう応え方をしてしまうが、それは本当に子供を理解していないという問題提起で、子供の相談に応えるには、「まず、相手を理解するために聴く」ことだと、ここでも傾聴の大切さが語られていました。

そして、理解するとは、賛成することでもなく、反対することでもなく、合っているということでも、間違っているということでもなく、相手を理解することが大切であると。


賛成することでも反対することでもない、合っているとか間違っているとかということでもないという部分は、特にカウンセリングでも大切なことであり、傾聴する意味がここのところにあるのだということを、わかりやすく教えて頂いているように思ったものです。

さらに、相手を理解する上で傾聴するだけではなく、こちらの意見が必要なときもあり、そんな時は臨機応変に会話をすることが必要なのですと続いて、これも、私にとっては大きなヒントになりました。

というのも、傾聴の技法の他にも、相づちとかオウム返しといった聞き方を学んだのですが、実際はなにかぎこちない感じがして仕方がなかったのです。

それが、ああそうかとこの問題を解決に導いてくれたのが、この会話をするということだったのですね。

つまり、傾聴も、うなずきやオウム返しも、考えてみれば会話を楽しむために必要なコツみたいなものだと考えるようになったというわけです。

傾聴などカウンセリングに必要な技法は、その話しに賛成するでもなく反対をするのでもなく、合っているとか間違っているという議論でもなく、大切なことは相手を理解するというためにあること、そのことこそが大切なんですね。
 
 
 
◆それってどうなの?_2008.06.26

 
地元のファミレス風レストランに入って、その日のお昼を頂こうとしていたところ、ちょうど料理が届いた頃に携帯電話がなった。一応マナーを守らなければと料理は少しお預けで、入り口付近に並べてあるソファーに座って電話を受けてみた。
 
たわいもない用件であったので、ふんふんと適当に答えていると、目の前の壁にいろいろと掲示してあるポスターとか広告やらに目が移り、そのうち、「お悩み相談します」というタイトルの白いポスターの、ちょっと手つくり風のものに目が留まった。
 
 
なにやら、それには全日本カウンセラー協議会認定心理カウンセラー○○○○子とド~ンとやってみようという感じで名前があって、その下に年中無休、電話番号○○○-○○○○-○○○○と携帯電話の番号と、自宅兼事務所の地図が、こちらも正々堂々とこれまたでっかく掲載されていた。
 
相当やる気丸出しの、気合の入れ具合がなかなかどうして本気モードで迫ってくる感じで、これはこれでいいのだと思ったのだが、なにか違和感を覚えた。
 
 
つまらぬ用件の携帯電話をようやく終えた私は、その違和感の、それがどこから来るのかとしばらくその掲示ポスターを眺めているうちに、あぁそうかと思った。
 
それは、本来はお客様のお悩みが問題であるのに、お悩み相談を承る全日本カウンセラー協議会認定、心理カウンセラー○○○○子が超メインになっていて、カウンセリングどころか○○○○子さんの自己満足をここに表現している以外のなにものでもないということを感じたからだ。
 
 
もちろんカウンセラーとしてアピールしなければならないのはよくわかるとしても、名前だけではよくわからない、ましてやその費用や、プロセス、効果、それから、カウンセラーの倫理や守秘義務などこそ、きちんと説明が必要ではないのかと思った。
 
 
 
 
◆会話とコミュニケーション_2008.06.23

 
表情が乏しくて家族との会話がはずまなくなると、次第に部屋に閉じこもりがちになって孤立し悩み始める。コミュニケーションの悪循環、留学先で留学生の陥りやすい、ホストとのコミュニケーション不足によるトラブルだ。

自分の子供達が留学しているので、こうした留学先での課題をいくつか聞く機会が増えると、なるほど考えさせられることがある。


表情と会話が乏しいというのは特に日本人にあるようで、自分も含めてなんとなくその様子がわかるような気がする。寡黙というのは日本人の美徳だと言えばそれまでだが、海外での生活ではそうはいかず、あくまで向こうの生活習慣に合わせなじませる努力が必要のようだ。

逆に日本を訪れている海外の学生さんの様子を見ていると、日本人とはその様子が違ってとても表現豊かで楽しそうに見える。そういったところからもコミュニケーションが弾むであろうと容易に想像もできる。

 
話が留学の方になってしまったが、言いたいことは表情とコミュニケーションではなく、日常のなにげない会話とコミュニケーションのことである。

表情が乏しく表情豊かが苦手であっても、会話のやり取りができれば相手も得て不得手を理解してくれるのではないか。反対でもいいのかもしれないけれど、やはり言葉はなくてはならないからだ。

 
要するになにげない会話を重ねればよいことになるのだが、なかなかこの会話が弾まないこともあり、結局のところ上手に会話をするにはどうすればいいのなんてことになる。そこで、うまく会話を交わすにはどんなことを心掛けたらいいのか、ちょっと調べてみると、共感することが大切だという。

たとえば、「昨日観て来た映画とっても楽しかった」と聞いたら、「そうなんだ、楽しかったんだぁ」と共感するという感じらしい。

確かに、「ああ、あの映画かい。僕はぜんぜんおもしろいと思わなかったけどねぇ・・・」なんて言っちゃえば会話は途切れ、それが弾むはずがない。でも、知らず知らずのうちにこんな風にして、相手の会話をこちらからさえぎってしまっていることが多いようにも思う。

私も覚えがあるのだが、職場ではついつい仕事の話ばかりになり、いつも不機嫌でやがて必要なことしか口にしないようになり、お互いがちょっとギクシャクして、コミュニケーションを意識してもなんとなくわざとらしくなってしまうという経験があった。

どうやら職場でも家庭でも、そうそう夫婦であっても、まずはそんな簡単な会話を大切にした方がいいらしい。

 
会話というのは共感することを意識すればいいのだから、相手が話しかけたことに耳を傾け、共感した同じ言葉を返してあげればいいのだ。

簡単ではないか。

職場でちょっと顔を合わせた時には、今日はいい天気だねぇとか、ちょっと暑くなりましたねぇなんて、会話に困った時にはそんなたわいもないことを用意しておけばいいわけで、こんなことならどしどし会話を持ち出してみようと思うのだ。


そうして会話を楽しみ、コミュニケーションを大切にする、そんな日常のちょっとした意識がとっても大切のようだ。
 
 
 
◆相談にのる時のコツその3_2008.06.01

 
たぶんメルマガだったであろうかホームページなのか、ついつい直観的に資料をとりよせたりするものですから、今届いた「たぬきコーチのコミュニケーション通信」なるものがどこのどなたからのものかはっきりせぬまま、中身を読ませて頂きますと、これがとっても参考になりました。
 
ワンポイントコミュニケーションとタイトルに、「相談にのる時のコツその3」というサブタイトルでした。
 
そもそも相談事というのはネガティブなものが多く、相談を受ける側までもがネガティブになりやすい。そこでそうならないためにどうすべきかとアドバイス。
 
「それはズバリ、相談者の問題は相談者が解決すべきことで、自分には関係がないという態度をとりましょう」とあって、ちょっとドキッとしました。
 
 
ちょっと冷たいような言い方ではあるが、むしろその方が相手にとってはありがたい。そもそも悩み事を解決するのは相談者本人。こちらがいくら動いてあげても、本人の問題でない以上うまくいかない。せっかく手助けしたのに途中で投げ出してしまうという結果になって、それこそ困るのは相談者の方だと。
 
なるほど、わかりやすい。
 
 
まさに、カウンセラーはそういう冷静な立場でなければならない。
 
 
こうした意識を持った上での相談を聞く姿勢は、ネガティブな相談を持ちかけられても平気。客観的な視点で物事をとらえられる。これが相談を受けるときに大事になるんですね。
 
ちょぴり、ほっとしました。
 
 
 
◆ストレスについて_2008.05.30

 
派遣社員にうつ病が急増しているという記事を読んだ。

成果主義や人員削減で荒む職場環境の中、そのストレスのはけ口が弱い立場の派遣社員に向かっているという。中にはセクハラまがいのものもあり悩みは深刻だが、立場上なかなか契約を解除できずに泣き寝入りをしてしまうといった内容だった。

しかし、これは派遣社員の問題だけではなく、もとはその企業の職場の問題。ほっとけば生産性や提供サービスの悪化だけではなく、組織の崩壊にもなりかねない。

身近な職場でもこうした状況を耳にする機会も増えているようにも思え、さてどうしたものか?

記事では、こうしたストレスの連鎖を断ち切るには、自分の身を守りつつも、相談に乗り、愚痴を聞くだけでも相手の悩みは軽くなるはず。立場の壁を越えて人と人がつながるしかないのだと結論づけていた。

ここで、ストレスについて復習してみた。

まずストレスとは、外部から物理的、心理的、社会的にいろいろな刺激を受けて緊張や歪みの状態を起し、これらの刺激に順応、適応しようとして一種の防衛本能が起こる、これらの反応をカナダの生理学者セリエはストレスと呼んだ。

ところで、ストレスは少なくても多くてもいけない。

毎日なにごともなく緊張に欠け頭も体も働かせることもなくただ漫然と過ごしている過小ストレスの状態では、人の体や心を鈍らせ退化させてしまう。適度なストレスは人間の行動を適度に活性化し快適で張りのある生活を可能にし、心理的にも生理的にももっとも効率の高い状態もたらす。逆に、過度のストレスや長期に渡るストレスの多くは、不愉快や病気などの害をもたらすとなる。

そもそもストレス状態の成り立ちとは、ストレッサーに対する個々の受け取り方と言える。

ストレス = ストレッサー × 受け取り方(抵抗力など身体的条件とメンタルな要素)というわけだ。

今回は、まずストレスの意味と特徴、性質なるものをおさえた。次に、ストレスの対応を復習してみることにする。

 
 
 
 
◆カウンセリングと人生相談_2008.05.26

 
相談室を訪れるクライエントの悩みは人生そのものという時があるという。これについては、産業カウンセラー1年生の私でも容易に想像がつく。
 
「どのような選択をすべきか迷う中、一つひとつ事実を確かめて方向性を決めていく。人生相談に訪れた人ももちろん支える、その支え方のひとつがカウンセリングと言えるかもしれない」と、ある心理学の本にはカウンセリングについてそういうくだりがあった。
 
 
カウンセリングは基本的に「○○しなさい」とか、「○○に決めたらどうか」といった命令や指示をすることがない。
 
この辺がはじめなんとなく頼りなさを感じてそんなものかと思ったものだが、クライエント自身が自分をごまかすことなく責任を持って歩んで行くには、自分で「どうしたいのか」気づく必要があると教えられ、なるほどと思ったもの。
 
自分で気づき、自分の意思で判断し行動することが大切だというわけだ。
 
 
指示やアドバイスが全く必要がないわけでもないだろうが、クライエントの気づきのプロセスがなければただの押し付けになりかねない。
 
自分で自分に気づき、励ましができるようになるのか、そんな側面的な援助がカウンセラーの力量となる。
 
 
そうわかっているつもりだがいっこうに前向きな話に展開しない時には、カウンセラーとしての無力さに苛まれいたたまれなくなるだろうとつくづく思う。
 
それだけに自分自身と向き合うことの心細さや不安の大きさを理解して、よき伴走者となれるようカウンセラー自身もおごり傲慢さと向きあえるように、さりげなさと辛抱強さが求められるのだと考えさせられるのであった。
 
 
 
 
◆カウンセリングと職場のコミュニケーション_2008.05.18

 
部下とのコミュニケーションを改善しようとカウンセリングやコーチングを学んだけど、職場では上手く使えないという意見を耳にした。

実は、私もそう思った時期があった。

たとえば、相手の言う、ここでは部下になるが、その言葉を繰り返しながら聞く傾聴という方法がある。しかし、実際に部下との話しの中で逐一そんなことをしていたらわざとらしくてしょうがない。

理論やテクニックを学ぶことはとてもいいのだが、それを使う方に意識が向いてしまっては本来の問題解決にはならないと言う人もいるようだが、カウンセリングと職場の上司と部下とのコミュニケーションの場はそもそも違うわけで、これを一緒に考えてしまうのはだいぶ無理があるように思う。

職場のコミュニケーションの中では傾聴のテクニックというよりも、私はあなたの言うことに理解したいんだと相手にきちんと伝えることが重要になるようだ。

カウンセリングの中でも傾聴だけではなく受容というのが大きなポイントがあって、相手をまず受け入れることは何をおいても重要なこと、こちらも傾聴の技術に走り勝ちになるところ、こうした点も大切にしたい。

いずれにしてもカウンセリングは、上司やコンサルタントのような立場で指導やアドバイスをすることはない。

あくまでクライエントの伴走者として寄り添う場でもあって、傾聴など同じ相手のあるコミュニケーションの方法としても、その内容も役割、立場も違うことを認識しなければならない。

と、今なら少し、そんな違いが説明ができるようになったかな?
 
 
◆現代の日本企業は厳しいのではなく冷たい_2008.05.16

 
日本メンタルヘルス協会で心理カウンセラー講師の林恭弘さんの、「成果主義時代に必要なリーダーのコミュニケーション」と題する記事にとても共感をしました。
 
 
成果主義に頼りすぎた上にITにまで便りすぎてしまって、いろいろな職場の弊害が顕著になってきた。みんなで力を出し合って成果をあげようとするものを、個人の成果、成果のオンパレード。成果を上げないと居場所がないぞと脅しているようなもので、これが不安と恐怖のマネジメントだと林氏は説明していた。
 
 
本来ならば、努力を続けてもらうために、心身の健康やモチベーションをどうやったら高め保てられるかとういう環境整備こそ真剣に考えなければならないところ、どうも結果ばかりを求めるようになってしまった。ITに頼りすぎる点も、対面でのコミュニケーションを次第に避けるようになり、どんどん会話が減ってくると、個人の弊害から職場全体の問題へと拡大してしまうと容易に理解できるところ。
 
 
林氏は、こうした現代の日本企業は厳しいのではなく、冷たいのだと言う。
 
 
悩んでいる同僚や部下がいても見て見ぬふり。無断欠勤する部下がいたら、上司はその体調を心配するより先に、仕事の進捗状況を心配するようになる。
 
なんとも悲しく、さみしい限りだ。
 
 
感情をくみ取り愛情を注ぐ、そうした人間の優しさみたいなものがいつの間にか忘れ去られてしまう。信頼関係を作ろうと構えることではなく、一言ふたことでも言葉を交わし、気持ちのやり取りを行うことが大切のようです。
 
 
政治の世界でも、後記高齢者医療問題など深刻な問題が取り立たされているが、問題は制度そのものではなくて、高齢者など弱者を思いやる気持ち、愛情がそこから感じられないことが寂しくも悲しいわけで、職場だけではなく日本全体としても人の優しさを取り戻す必要があるようです。
 
とても、大切なことを学べたようです。
 
 
 
◆痛みのマネジメント_2008.05.08

 
引き続き、島井哲志氏の「やめられない」心理学から。

第6章「こころと健康状態」の痛みに自分で対処するのくだりが大いに勉強になりました。
 
それは、「痛み」にまでマネジメントが存在するということを新たに学ぶことができたからです。

『痛みの経験の中で慢性的な痛みを経験している人は、痛みを自分ではコントロールすることができないと認知するようになり、これは自分は痛みに責任がないという考えと、自分自身に望みがないという自己評価につながって、そうした否定的な評価の結果として全般的なやる気のなさ、不活発さがもたされ、刺激に対しての過剰反応などの行動傾向がもたらされると考えられている』とありました。

そして『痛みに対してそうした否定的な認知をもてばもつほど、痛みの経験という困難を乗り越える努力をしない傾向が強くなり、心理的な悲嘆が強くなる。さらに、そのような認知的な評価が、行動や心理状態に大きな影響を与えるようになる』と続いていました。

最近、ある重い病気の疑いから入らぬ心配をし始め、勝手な思い込みから痛みを想像し、恐れ、脱力間を実際に経験したばかりであったので、ここのところの内容はよくよく理解できたところでもあり、痛みをはじめとする病気に対する人の感じ方についてとても考えさせられるところでもありました。

さらに、この痛みに対しては比較的積極的な考え方と、消極的なそれとがあるとありました。

積極的という考え方には、何か楽しいことを考える気晴らし思考や、痛いのではなく鈍いと考えるようにする痛みの再解釈、自分は痛みに勝てる!と自分に言い聞かせる自己教示など。そしてどちらかといえば消極的なものには、痛みに注意を払わないといった痛み無視、お医者さんがいつか治してくれるだろうと信じる願望思考、痛みに自分が打ち負かされてしまうという破滅思考があるという。

私は、まさにお医者さんが、医療技術が必ずは私を救ってくれるであろうなどと、勝手な願望思考であることをこれに触れた時によくよく思ったものです。

『つまり、痛みを本人がどう評価し、どのような予期をしているか、その痛みがどこから来ているかについての本人の固定的な考えという信念が、痛み経験そのものや情緒的状態、そして行動を決定するきわめて重要な要因になると、それが単なる身体的なものでだけではなく、その経験をどうとらえ、どのように対処するのかのプロセスが痛みの経験の理解とマネジメントにとって重要であることは間違いがない』と結ばれてあった。

痛みが身体的だけではなく心のあり方との関係はもちろん、考え方とも深い因果関係があることを経験からなるほどなぁと思うわけであります。

こうして「痛みをマネジメント」するという考え方には私にとってあまりにも新鮮な驚きであったわけです。著者は『痛みを代表として予測やコントロールが難しいと、その結果できないと認知することは適応を困難にしてしまう』とまとめていました。

自分自身が人生の出来事に影響を与えられるんだ。感じ方、考え方でコントロールできるんだという信念を獲得することは、人生においても健康を守ることに大いにつながる、自分は人生の主人公、人生を切り開けより健康でいられるんだと、とても熱いものが沸いてくるのを体験し大いなるヒントを得たようでした。
 
 
 
◆それぞれ異なるストレス対応_2008.05.06

 
「やめられない心理学」(島井哲志著)をたまたま本屋さんで目に留まり読んでいたところ、気になる箇所があった。
 
それは、「感情の違いに注意を払わず、さまざまな感情的反応をひっくるめてストレスと呼ぶ専門家がいたら、気をつけたほうがいいかもしれない」という部分であった。
 
これは、一概にストレス反応と言っても、思わずカチンとくるイライラ、どうしたらいいか困っている不安、何もする気が起きない落ち込みが混ざっているからだと。
 
これらは明らかに異なるもので、そうした感情による影響や解決のために必要な対応はそれぞれ異なる。
 
だから、イライラは誰かに攻撃を仕掛けることがありえる。不安にならないためには緊張しすぎないことが重要で、落ち込みには考え方を見直す必要もあるだろうと。
 
なるほど、イライラ、不安、落ち込み、確かにその原因や対処は同じストレス対応と言ってもだいぶ違いがあることを学べたようだ。
 
 
 
◆少年事件の背景_2008.04.29

 
今朝の静岡新聞の朝刊「大自在」に、少年事件の背景には体験不足があるという記事があって、確かにそうかもしれないと考えさせられた。
 
記事は、東大名誉教授で解剖学者の養老孟司さんの子供の頃の話から始まっていて、「子供のころは、昆虫の羽をむしったり、カエルの足でザリガニを釣ったりと、どれほど多くの小さな生き物を殺してきたことか。野草の植物も同じようにスッパ、スッパと切った記憶もある」とあって、読んでいる私も思い当たることが多々あった。
 
しかし、こうした愚行を重ねながら、やっていいこと、悪いことの判断力や人の痛み、思いやりなどを自然に身につけていくのだろうとあり、経験や体験が人を育てるということかとなるほどとうなずいた。
 
そして、最近のニュースには、歩道のプランターに植えられていたチューリップを傘で次々折りながら歩いていた男は映像を見る限りスーツ姿の大人だった。少年事件の背景には、そうした体験不足があり、あのスーツ男の愚行の背景にはなにがあるのかと嘆いていた。
 
最近の子供達は、そうした愚行すら経験する機会が減ってしまっているのかと思うと、将来の日本を少なからず案じてしまうのでした。
 
 
 
◆自殺について_2008.04.27

 
ここのところ、毎日のように自殺のニュースが増えている。あんまり頻繁なんで、その異常さがわかる。日本は自殺が多いという話もよく耳にするのだが、状況はますます悪化の一途という雰囲気が心を傷める。
 
自殺について調べてみると危険兆候というのがいくつかあるようで、例えば自殺をほのめかすというのはわかりやすいが、別れの用意をする、過度に危険な行為に及ぶ、突然態度や行動が変わるなど、また、うつ病の人、将来の展望を見失った人などがこうして自分で自分の命を絶つことを考えるようになるようだ。
 
もちろんそうした兆候がわかればすぐに話しあったり、専門家に相談する必要があるのは言うまでもないが、なにが問題で、それを解決に向けるため手助けをすることは重要だとある。思いつめている時は、具体的に問題が見えなくなっているというも多いので、自分の抱えている問題が見えてくるだけでも、少し気持ちが楽になるという点は慎重にも大切にしなければならない。
 
自分がいなくなってしまった方がいいと考えていることもあり、そうなるといかに周りが悲しみ辛い思いをしなければならないと丁寧に繰り返し伝えていくことが大切だともあった。いずれにしても専門家の助けが必要だが、まずはそうした兆候を受け取る場面がなくてはならないようだ。
 
こうして自殺についていろいろと資料を読んでいると、自殺の危険因子の中の性別のところで、自殺未遂者は女性が多く自殺既遂者は男性が多いというのはよく知られている事実という箇所が妙に記憶に残った。男性の思い込みの強さ、抱え込む悪い癖や弱さ、こうした状況では笑っていられないとつくづく考えさせられたのであった。
 
 
 
◆仏教とカウンセリング_2008.04.25

 
ここだけのお話しではありますが、仏教とカウンセリングは似ているところがあると常々思っておりました。あの観音様だって、まぁ勝手な思い込みではありますが、いろいろな悩みや問題を静かにそっと聞いてあげるという立場というか、その姿勢というのは、まさしくカウンセリングのそれと似てやしないかと思ったりもするのです。
 
観音様は修行中の身、目指すは完成された如来様であって、そういうシチュエーションもカウンセリングに身を潜ませる者にとってみると、なにかしら共感するものがあるわけです。
 
というのも、たまたま手にした「般若心経の科学」という本の中に、「仏教には『妙観察智(みょうかんざっち)』という言葉に触れていた箇所があって、ああなるほどなぁと思ったからでした。
 
「妙」というのが優れたという意味があるようで、単に観察するというよりも一段深く観察するということで、人を対象にして言うのであれば、「相手の気持ちになりきる」といった感じだそうです。
 
本当に相手の気持ちになる、自分も相手も一体になって同化すると、そこに慈悲が生まれるという知恵を教えてくれているようです。
 
カウンセリングも相手の話しに耳を傾けるだけではなく、声のトーン、表情、身振り、姿勢、顔色、態度。五感を総動員して相手に向かうその姿勢の先には、まさに「妙観察智」の心境ではないかと学んだところでした。
 
 
 
◆病気とカウンセリング_2008.04.24

 
健康診断で思いがけない難しい問題を抱える診断結果となり、それはそれはショックで食事ものどを通らなかった。ひとり問題を抱え込みどんどん悪い方へと落ち込んでいく。力は抜けなにもやる気にもならず、将来を悲観して、自殺という手段も優先順位をゆっくりと上がってくる。
 
こんなにも「思い込み」が不安を掻き立てるなどと、想像はしていたがこんなにも影響を及ぼすものかと自身の体験で驚いてしまうほど。カウンセリングでこうした思い込んだ気持ちを理解しようなんて簡単に考えていたが、そんな単純な考えにあきれてしまう。
 
おかげさまで最悪のケースは避けられそうでまもなく最終検査の確認を待つのだが、次第にその様子を人に語ることができるようになると、同じ境遇や体験をした人の多いことを知り、次第に状況を冷静に見ることができるようになってきた。
 
ひとりで抱え込んではいけない、人に相談する必要性、話を打ち明ける意味、カタルシス、そんな本気の貴重な経験であった。
 
 
 
◆自己カウンセリング_2008.04.22

 
もしかして、これって自己カウンセリングじゃぁないかなと思っていた。それが、日記です。といっても、毎日きちんと書きましたというものだけではなく、手帳にそれとなく書き留めたその日の自分の出来事や思いみたいなものを書いてみる。
 
たったそれだけど、自分にそれとなく語って、その日のうちに吐き出している、そんな大切な役割もあるように思います。
 
 
 
◆面接実習を振り返って_2008.04.19

 
面接の実習の体験は興味深くも、いろいろと考えさせられたことを思い出す。
そして、面談を経験する前に抱いていたカウンセリングのアプローチが、自分のそれと大きく違うことにも気づく瞬間だった。
 
それは傾聴の技術を学ぶことが中心であるが、やがて聴くだけでは話しの展開が作れずあれこれと考え悩む時期でもあった。
 
少しずつ面談実習の回数も重ねてくると、なんとかそのやり方というのがわかりかけるのではあるが、それが逆に自分が成長しているのかと勘違いをしだし、ついついつかんだイメージに固執してしまい次になかなか思うようにいかなくなる。
 
クライエントが違えば、相談の内容、問題の深さ、悩みの重さはすべて違うわけだから、たとえひとつのパターンをイメージできたとしてもなんら役に立つわけもなく、やればやるほどわからなくなった。
 
どうやらその描くイメージに固執するのではなく、やってみた結果を重視すべきだと思うようになり、いろいろと小さなチャレンジ、創意工夫を試みた覚えがある。
 
すると、上手くいくときもあれば、そうではない時もあり、リズムというか流れみたいなものを敏感に感じるようになって、そのうちその流れに添いながらその先を案ずるようになるのを、もしやこうしてカウンセリングとは進んでいくものかと自分なりに理解したつもりであった。
 
なによりも大切なのは、「何をしたかではなくどう変わったか」ではないかと、やがて考えるようになった。

 

 

 

◆試験に向けた学習のヒント_2008.04.18

 
これについては私が知りたいところ。
 
養成講座でご一緒の合格されたある方のヒントをおかりしてここで触れてみますと、
よく聞かれることですがとにかくテキストを読みこむことだそうです。
 
その全体像を自分の言葉で説明してみる、できるように読みこんでみるとのこと。
 
部分的な理解と全体をバランスよくといったところでしょうか?
 
 
 
◆思春期の子供と親の関係_2008.04.17

 
毎日新聞だったか、思春期の子供と親の関係についてのコラムが記憶に残った。
 
たしか、少年院に送り込まれてしまった少年たちは普通の子供となんら変わらない。違うと言えば、それまで希薄な関係であった父親が、思春期になって突然介入してくることから、次第に心が荒れてくる傾向がある。そして、思春期になってからではなく、その前からの関係が大切だという内容だった。
 
こうした関係は、職場においても考えさせられるように思った。
常日頃からのコミュニケーションは、変化の時にこそ重要な役割を発揮するように思う。
 
 
 
◆雑談が大切_2008.04.16

 
職場のコミュニケーションをよくしようと試みたとしよう。例えば「報連相」を組織だって取り組むとか、毎月飲みにケーションを定例化するとかと言った具合だ。ところが、もっと簡単で効果のある方法があるというのだ。
 
それは何かというと、単なる「雑談」が大切だという。朝のあいさつだけでなく、「今日はいい天気で気持ちがいいねぇ」なんて天気の話しをはじめ、テレビドラマやスポーツのことなど、ちょっとしたたわいもない出来事の雑談を意識を持って会話するというわけだ。
 
なんだそんなことと思われるかもしれないけど、なかなかどうして常に会話ができる状態というのが、円滑なコミュニケーションにつながるというもの。突然コミュニケーションと言っても上手くできないのは日ごろのこうした会話が足りないからだ。
 
これは家庭でも同じで、これなら簡単。まるで、それはちょっとした潤滑油といったところであろうか?